クリエイティビティが
ビジネスと社会に繋がる。
SFCでの学びが、私たちに教えてくれたこと

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慶應義塾大学総合政策学部・環境情報学部(SFC)は2020年に創設30年を迎え、「現代のクリエイティブマインドを学ぶ場所」として、新たな一歩を未来へ向けて進んでいます。
今回、SFC卒業生でデロイト トーマツ コンサルティング及びモニターデロイトの執行役員パートナー・チーフストラテジストである邉見伸弘さんと脇田玲環境情報学部長が、SFCでのこれまでと今後の展望について語り合いました。

SFCが創設30年を迎えて

脇田

SFCは創設30年を迎えましたが、邉見さんから見て、SFCはどのように見えていますか?

邉見

当時、1993年にSFCに入学した際は卒業生がいなかったので、私たちは「未来からの留学生」と言われていました。そう言われていた私たちがもう、おじさんになってしまっているのですが……。

SFCは日本の教育システムの中では異端の存在でした。私も海外の大学に行くつもりで入学しましたが、偏差値的な観点、他の大学や学部との比較でSFCに来た人は少なかったんじゃないでしょうか。そもそも前例がないことに取り組んでいて、何の保証もなかったわけです。卒業生がいないので、進路なんてわからないし、就職に有利不利も判断しようがなかったですよね。SFCには、日本の大学システムに「チャレンジする」という過程のなかで、退学してアメリカでピアニストになったり、起業家になったりと、ユニークな人たちが非常に多かった。そういった意味では、社会に出てからも「爪痕を残す」という観点から言うと、当時と今を比較しても、皆「チャレンジする」という点で変わっていないと思います。現役の方は、接点がないので分からないですが、脇田くん、いや脇田さんか(笑)が最年少学部長に就任するなど、思い切っているし、フロンティアスピリットを持ちつづけていると期待しています。

脇田

私は2004年に母校であるSFCに専任講師として赴任したのですが、その前はベンチャーで4年ほど働き、フリーランスとして独立、自分のデザインオフィスを数年やっていました。研究者畑を歩んできたわけではないですし、出戻りでもありますので、外から見た姿と内情とをある程度風通しよく見られる立場かなと思っています。その様な視点で見ると、SFC的な分野横断的で実践的な教育は、当初は少し色物のように見られていましたし、卒業生があまり成果を残せてないというネガティブな評価がしばらくの間はあったと思います。

それが一変して、どこへ行ってもSFCの卒業生が活躍している状況になったのは、創設から20年経ったくらいからではないでしょうか。今や情報通信、デザイン、バイオ、クリエーションなど、さまざまな分野で卒業生が活躍しています。彼らが40代になってから、重要なポジションに就いているんですよね。そして、この30年を節目に、SFCの立ち位置を改めて確認し、これからの30年のビジョンを皆で考えているところです。

邉見

脇田さんは評論家や学者だけでもなく、「行動するアーティスト」として、単なる教授という枠を超えて活躍していらっしゃいますよね。最近拝見した対談みると、作品を通じて「社会に爪痕を残す」と脇田さんは話していると思うのですが、それはどのような意図、想いがあるのでしょうか?

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脇田

理想像があってそこへ向かって努力したというよりは、振り返るとそうなっていたという感じです。自分のなりたい姿や仕事、理想とするビジョンのために5〜10年先に向けて努力はしていくのですが、一方で社会はどんどん変わっていきますよね。僕らが学生の頃はビーイング・デジタルの名の下に社会システムのデジタル化が重要視されましたが、その後にユビキタスやファブといったフィジカルの時代が来て、現在は再びビッグデータやDXと言われています。揺れ動く社会の変化に影響を受けながら、やりたいことや仲間も徐々に変わっていきます。そうやって漂流しながらドリフトしていくと、気づくとそこにいたというのが今の状況なんですよね。荒野を切り開いてやってきたというよりは、むしろいかだで流れ着いた、という言い方が感覚的には正しいのかもしれません。

ただ、新しいものを作ろうと、意識はしていました。SFCではコラボレーションや異分野協業が当たり前に行われていたので、自分の中でコラボレーションをどう組み立てるか、いつも考えていましたね。一方で、過去のSFCを少し否定するような言い方かもしれませんが、まず自分が立ってないとコラボレーションはできない。自分が何者かということが分かっていないといけない。それで私は大学院の博士課程まで進みました。コンピュータを用いた幾何学やその医療への応用をテーマに研究を進めて、CTやMRIから3次元データを作って圧縮してネット転送するとか、手術シミュレーションをするとか、そういったサイエンティストやエンジニアである自分を時間をかけてしっかりと組み立てて、そこからコラボレーションをしていったという感じですね。

邉見

サイエンスからスタートし、デザインの領域へ入っていったのですね。

脇田

教員として着任した当時、デザイナーという仕事は輝いて見えました。2007年にはデザイン専門のミュージアム『21_21 DESIGN SIGHT』がオープンし、至る所で毎年のようにデザインの企画展やフェスティバルが実施されていました。現在の様にデザインと経営が結びつくフェイズの前の段階で、デザインとテクノロジーが結びついて、未来の生活を指し示すプロトタイピングが多くなされていた時代です。当時の流行に影響を受けて、私はヒューマン・コンピュータ・インタラクションとデザインの関係を研究していたのですが、ある時に大きな病気をしてしまったんですね。それがきっかけで、残された時間は本当に自分のやりたいことをしようと考えるようになり、気がついたらアートの世界に飛び込んでいました。父親が画家だったのもあり、もともと身体に美術が染み付いていたんでしょうね。

卒業後に進んだ道で気づいたこと

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邉見

私は大学卒業後、当時は「お堅い」と思われていた政府系金融機関である、旧日本輸出入銀行(現:国際協力銀行(JBIC))に就職しました。SFCでは私が就職活動をしていた1997年当時にはすでに学生は起業するものだと思われていたり、ベンチャーに就職するのが当たり前のように言われていましたね。私も起業家精神あふれる情報産業大手と最後まで迷いましたけど、当時は中途入社が一般的でもなく、どうしても海外で活躍したいと思って、国家機関を通じて経済外交の最前線に飛び込みました。その後、20年以上「国際情勢分析とビジネス」に関わるとは思いもしませんでしたが。

正直、SFCは新しい学部で、会社の面接でも「環境問題をやっているのですか?」と聞かれるなど、この学部なんだろう? という感じで思われていて、受からないと思っていました(笑)。総合職では、私がSFCからの第1号入行だったのです。今もコロナウイルスのパンデミックで世界が大変な状況ではありますが、当時も日本長期信用銀行(長銀)の破綻や、山一証券の破綻、アジア通貨危機などが起こり、就職氷河期に入っていくタイミングでしたが、保守的な銀行に「異端児」として採用して頂いた訳です。結果、アジア通貨危機後の対応だったり、中国との関係をどう見直していくのか、そもそも前例のないものばかりに直面することが多くなりました。

2000年から中国が世界貿易機関(WTO)に加盟するのですが、その頃とほぼ同じタイミングで、日本がお金を中国に貸していた時期から、中国からお金が返ってくる時代に変わっていくんですよね。当時の日本からすれば、中国は経済規模が小さかった、20年後にまさかこんなに大逆転をされるとは誰も信じなかった時代です。国際金融、そしてトラディショナルな世界でも今まで前例がなかったようなことが起きていった。たとえば、通貨危機の処理をどうしたらいいかなど、教科書には書いていません。そういうなかで自分たちなりに考えないといけない、前例のない仕事にJBICで取り組むこととなりました。今もJBICは大きな影響力がありますが、国際金融のプロ集団で、本当に優秀で素晴らしい方々が多く、どうやったら価値を出せるか、といつも考えていました。ノーブレスオブリージュということも叩き込まれましたしね。

なぜ私が、次々に来る新しい課題を乗り越えることができたかというと、SFCのときにいた「前例のないことをやる。レールが敷かれていないのが当たり前」というのがバックボーンにあったんじゃないか、また、変わっていることをやったとしてもそれは、周囲の認識との違いだけであって、怖いことではないという気持ちがあったからではないか、と思います。

当時SFCを卒業した友人も、有名とされる商社やメーカーをあっという間に辞めて起業したり、デザインや映画業界で働いたり、海外で勉強していたり、世界一周のバックパッカーをやっていたりする人も多かったですよね。それに比べると、自分が会社から期待されるアジェンダやチャレンジといってもまだまだだ、といった精神的な励みがありました。その後、フランスやアメリカでの留学、外資系企業等を渡り歩き、新しいサービスの開拓にも取り組んでいますが、SFCのフロンティアスピリットは大きく影響していますね。

脇田

なるほど。SFCのスピリッツと環境が邉見さんの進路に大きく影響したのですね。

邉見

コンサルティングファームで働いている今でも、そういう気持ちはありますけれどね。最終的には個が強くなっていかないといけないし、社会にどう爪痕を残すかというものがないと心地よくないというか。それは多分、当時、SFCで得た感覚が基盤になっていると思います。

「役に立たない」ことが「役に立つ」魅力

脇田

1993年にSFCに入学したとき、カルチャーショックはありましたよね。大学では半分くらいの人が英語で話していたり、多くの人が自分の好きなことに没頭していたのが印象的でした。ストリートでパソコンを開いたり、自宅からローラーブレードを履いてきてバスに乗ってそのままキャンパスに行ったり、自由に楽しそうに生きていた。ドラマで見るアメリカの大学に来たような雰囲気でしたよね。

邉見

海外経験のあった学生、7~8割とか言われていましたよね。キャンパスでも英語が飛び交っていたし(笑)。ここは『ビバリールズ青春白書』か?、と。とにかく華やかで、キラキラしていた。みんな授業でバンバン手を挙げ、行動力があるし、「ちょっと場違いな世界に来てしまったかも」と戸惑うとともに、フレッシュさを感じました。英語の授業は、英語ができない人が取るものと言われていましたが、とても実践的で、社会に出て役に立った。田中茂範教授(当時)がクラスを担当されていて、「君たち、鎌倉に行って外国人とコミュケートしてこい。うまく出来ているのをビデオに撮ってきたら単位をやる」とハッパをかけられました。これでもか、というほどプレゼンをさせられました。でも、当時のクラスメートがシンガポールやマレーシア、イギリス等、世界中で活躍しているのを見ると、使える状態になって送り出して頂いた、と思います。当時は「帰国(子女)とオタクの天国」と言われていたのを覚えています。何もなかったから、あちこちで色々なものを自分たちで作っていましたよね。今思えば、シリコンバレーでスタートアップが勃興する感覚と似ていたんでしょうね。ビル・ゲイツとリチャード・ブランソン(ヴァージン創業者)が揃って講演するから、授業は一旦おいて、聴きに行こうぜ、と友人から誘われ出かけていきましたが、「なんでも見てやろう、やってみよう」、といった熱気がありました。

脇田

1993年は、Jリーグが開幕したり、商用インターネットが始まったり、バブル崩壊後でしたが、まだまだイケイケな空気を持った時代でした。そういう社会的背景でSFCに入学したというのは大きな意味があったと思うんですよね。

邉見

勢いがありましたよね。当時、経済学者の竹中平蔵さんが助教授でいらっしゃって、工学者の村井純さんもいたり。テストも江藤淳さんなんか、2週間前に貼り出しでしたものね。持ち込みもOK。普通の点取り虫ではとても無理なわけです。昔ながらのノートが出回るとか、そういうのはSFCにはなかった記憶があります。SFCはホント厳しいよね、と他学部の友人にも言われていました。のちにフランスのグランゼコールでは超少人数制の教育を受けるのですが、ひたすら口頭試問が続くんです。SFCに通ってなかったら、もう大変だったと思います。ハーバードビジネススクールでのケースメソッドもそうでした。言ってみれば、正解のない中で、今持てるアイデアと判断力を全力でぶつける訓練をさせられるわけですよね。手を挙げて、自分の考えをぶつけることがまず第一歩。それが出来なければスタートラインにさえ立たせてもらえない。今の現役の学生さんは海外経験を積んだ方も多いでしょうから、皆さんもっと進化されているかもしれないけど。

脇田

日本の社会学を黎明期からリードした富永健一さんや専門がよくわからないけどなんだか圧倒的に凄い高橋潤二郎さんなど、とにかく刺激に溢れていましたね。コンピュータと幾何学に没頭する前はしばらく自分探しをしていて、「世界と中国研究会」という中国経済を研究する同好会に入っていたことがありました。ダニエル・ベルの『脱工業社会論』やトフラーの『第三の波』を下敷きに、アル・ゴアの『情報スーパーハイウェイの先の未来』を勝手に論じたりしていました。中国経済が日本を追い抜く気配が数字として見えてきた時期で、これからの社会がアジア中心になっていくということを学生ながらも考えていました。邉見さんが最近書いた本『チャイナ・アセアンの衝撃 ー日本人だけが知らない巨大経済圏の真実ー』を見ると、そのときの記憶が蘇り、感動するんですよね。当時、18、19歳で、中国の気配をなんとなく学びながら感じていたことが現実味を帯びてきて、さらにこの先にどの一歩を歩めばいいのかということを邉見さんが書いているという、かなり感慨深い話です。僕も本を書かなければならないとちょうど思っていたので、刺激を受けたところでもありました。

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邉見

SFCは「ダブルメジャー」(二つの専門を持つこと)を取り入れてたのも魅力的ですよね。私がSFCに入った理由に、映画が単純に好きで、映像の世界か、いわゆる外交官のような国際社会のなかで生きていくか、ということを高校生のときに決められなかったので、それを考えられるようなところに行きたかったというのがありました。大学では、ひたすら映画を見ていて、卒業まで2,000本ほど見ました。ゼミも国際経済法の田村教授(現法学部教授)だけでなく、森川英太朗教授(当時)のところに入って、映画関係を学びました。大島渚監督(『戦場のメリークリスマス』等)とご同期で松竹ヌーヴェルバーグとして一世を風靡した方。色々な巨匠の方をゼミに呼んで頂いたり、とにかく幅広い世界を見せて頂いた。アルフレッド・ヒッチコックやフランソワ・トリュフォーなどの映画術や脚本も勉強しました。そのとき学んだ社会や人間の捉え方は、大きな財産になっています。森川さんは、めちゃくちゃ厳しいんですが、哲学的な質問もされるんです。突然ボーヴォワールの詩とか平塚らいてうを語りだしたりしてね。「原始、女性は太陽であった、君、これ分かるか?」とか。色々な爪痕を起こしていくんです。あとは、映画技法の「見せ方」が、思わぬところで役に立っています。本などの執筆や講演もそうですが、コンサルティングはじめビジネスの業界でも役立つことがあるんです。ストーリーは大事な要素ですからね。いわゆるロジカルシンキングだけでは通じないことも多いので。

たとえば、私はデザインシンキングは専門ではないですが、映像の構成で脚本を書く場合、「無駄な遊び」をどう入れるか、ということを考えますよね。また、現代思想、ポストモダンとは何か、なんて普段の日常生活からしたらどうでもいい話で、仕事には何の役にも立たないように思える訳ですけれど、その何も役に立たないことのほうが「意外に役に立っている」ということがあります。当時のSFCでは実践的ではなく、一見、何の役に立たなそうな科目も充実していて、実際にそれが役に立っているんです。「VUCA」だとか「不確実性の世界」と呼ばれる時代では、尚更です。先人たちの智慧から、いつの時代も確実であったことなんてないと分かるから。

脇田

SFCの設立当初、教員は当時のぼくたちに真正面から向き合ってくれました。今の様な研究会中心のSFCが出来上がる前でしたので、まずは人を育てることが主要な課題だったはずです。今のSFCは、能力次第で1年生からすぐに研究会に入って、最先端の事例と向き合うことができます。

世界へ人材を輩出するSFC

邉見

慶應に限らず、世界的な「知の競争」を目の当たりにしました。SFCは教育のあり方も変わっていくと思いますが、今後、どのような立ち位置になっていくのでしょうか?

脇田

「スペシャリティ」という意味では、慶應には三田、矢上、信濃町にそれぞれしっかりとした専門の学部がありましたので、それらができない部分、未知なる部分を実践する目的で慶應は意図的にSFCを設立したと考えています。専門の学部はすでに価値が認めらているものを高度化していくことが重要ですが、それに対してSFCは「まだ見ぬものを作り続ける」ということに存在意義があると考えていて、それは世界的に見ると優位性を持っているでしょう。SFCはアカデミックランキングのようなものに左右されずに存在しているのです。たまたま留学生は多いですが、それはランキングのためではなく、キャンパス自体に独自の世界を創ろうとした結果です。政策もデザインもコンピュータも横断的にリーチできて、自分だけの学問をつくることができる場所だということを海外に行って話すと驚かれます。

SFCは、世界に向けてグローバルな授業と研究を展開しているので、日本を良くしようというよりはむしろ地球を良くしようということを考えているんですね。SFCの基盤となっている情報教育と多言語教育は、インターネットが結ぶユニバーサルな世界と、そこでの豊かな複言語コミュニケーションを見据えたものです。そのような価値観をもって世界で活躍する人材を輩出しているので、知の競争とは少し距離を置いているところがあると考えています。

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邉見

現代のSFCに必要な「4つの柱」のようなものがありましたよね?

脇田

デザインが薬だとすれば、アートは毒。デザインがあれば健全な社会が作れますが、デザイン過多は薬の飲み過ぎと一緒で危ない。そして、人間は刺激や害になるものも求めずにいられない存在で、アートを通してその中に入り込むことで、人間性とは何かと問い続けてきました。もう一つは、サイエンスが謙虚さであるとすれば、テクノロジーは欲望。科学を通して自然の叡智と向き合うことで、私たちは物事を広く冷静に捉える視野を得ることができます。一方のテクノロジーは究極の身体拡張ですので、人間の欲望を刺激しつづけます。現代ではこの4つの要素を使いこなすことがクリエイティブに生きることではないか?ということを大学のウェブサイトに書きました。

私個人のなかにこの4つが並立しているかは分かりませんが、今のSFCでは少なくともこの4つがすべて学べる場所としてカリキュラムがデザインされていますし、これらの領域をカバーできる教員を雇用しています。

「模倣」して「創造」する

邉見

脇田さんは最近、作品を通じて「ディープフェイク」の話をしていました。要は物事をどのように捉えるかという点で教えて欲しいことがあるのです。僕は国際情勢分析をビジネスとしているので、相手の立場や異なる視点で情勢を見極めていく、カウンターパースペクティヴといった観点が必要なのですが、脇田さんがデザイナーやアーティストとして物事を見るときや社会を捉えるとき、考えている視点はあるのでしょうか?

脇田

私は世の中の多くの人が広い意味で可能態としてアーティストになりうる存在だと思っています。ヨーゼフ・ボイスは「あらゆる人間は自らの創造性によって社会の幸福に寄与しうる、すなわち、誰でも未来に向けて社会を彫刻しうるし、しなければならない。自ら考えて行動して、実践していく人は芸術家である」と言ったんですよね。

創造の原点はミメーシスとよくいう様に、その原点は「模倣」です。模範となるものがあったり、憧れているものがあったり、それを真似していくなかで、気づくと自分のものが出来上がっている。あらゆる精神活動のプロセスにミメーシスがあると思うんです。たとえば、アカデミックなプロセス、アクティビティにおいても、先人の研究を読み、問題意識を共有したり、そこから差分を自分で積み上げていったりするわけですよね。ビジネスでも新しいフィールドを作って、違うものを作って、壊して……と、模倣することが関わっています。
ディープフェイクは、世界全体に模倣が満ちているということを僕らに気づかせるものでもあると思います。大量生産、大量消費も、ひとつのオリジナルがあって、そのあとに続くものがフェイクだというわけでないじゃないですか。フェイクというものを消費している、その行為に価値を持つ時代に私たちは生きていると思うんですよね。ボードリヤールは『シミュラークルとシミュレーション』の中でフェイク自体がオリジナル以上の価値を持ちうる時代が現代ではないかという論点を提示しています。

これは1980年代のアメリカのポップアートがしばしば使っていた概念なのですが、たとえばリチャード・プリンスはマルボロのシーンをそのまま別の写真群として盗用したり、バーバラ・クルーガーは新聞の広告の切り抜きだけで作品を作りました。このような一見「パクリ」に見えるが実は批評的な「アプロプリエーション」という手法を確立したんですよね。ちなみに、クルーガーが多用したフォントを使っているのが、ファッションブランドのSupreme(象徴的なボックスロゴは彼女の作品で多用されたフォントを使用している)。Supremeは、盗用のアートをさらに盗用しているその態度がクールなのです。このように、ディープフェイクは「我々の営み自体を考え直す機会」であり、オリジナルとフェイクという視点への技術的実践を伴うカウンターパースペクティブなんですね。

邉見

フェイクというのは、「模倣的な概念」を含めたことですよね? 東南アジアや中国で売れている、たとえば携帯などは、模倣はしているけれど、ある程度そのモノが成熟していくと、独自の使われ方、コンテキストで発展していくことがあるんだろうなと思っていました。私の本でもそういったコンテキストについては書いていますが、意外とそれは強いプロダクトを作ったオリジネーターからすると、パクられないようにしないと、という思いで作っているので、観点がズレていくのかもしれませんね。

脇田

オリジナルを守ろうというのは、自然に反することをしているのかもしれません。自然の摂理では模倣することが生き抜くために必要だと思います。

人生は、ギブアンドテイクじゃない

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脇田

在学生をはじめ、悶々と4年間を過ごしている人、これから社会に出ようとしている人、SFCを目指している人たちにメッセージをお願いします。何を大事に生きていくか、どんな社会を見据えて生きていくかなど、何かありますか?

邉見

ベーシックな感情を、大切にしたほうがいいと思うんですよね。好きとか嫌いという感情や興味を優先する。学校のシステムや友達関係など他者の目線にとらわれ過ぎないこと。無理に何かをしようとするとおかしなことになるので、違うと思ったら違うでいいと思います。

キャリアもそうですが、自分が望むようなプログラムというものが世の中に用意されているわけがありません。なかったら作るか、時間をかけてピースをはめていき、なんとかするしかないのです。そういうときに大事になるのが、ほかの人に流されない「プリンシプル」のようなものを模索し続けるということなのかな、と思います。

今のコロナもそうですし、10年前の東日本大震災、その前の阪神・淡路大震災など、さまざまなタイミングがあって自分が想定しないことに出くわすことやコントロールできないことが多いです。そのコントロールできないという現実をまず理解する、その中で、自分の思いやアイデアをチャレンジするテストツールとして、大学などがあるのではないのでしょうか。

学校では、リスクの少ないテストはできます。私なんかも、大学で映像制作をやったんですよ。かつて映像作家を夢みたこともあったのですが、近くにに凄まじい才能を見ると、もう全然違うと思うんです。実際彼らは、卒業後『ドクターX』といったドラマや『ピタゴラスイッチ』といった番組を作っていくわけです。脇田さんの作品とかもそうですよね。これは住む世界が違いすぎる、と分かる。でも、やってみないと向き、不向きさえ分からない。自分から出さないとフィードバックはもらえない。リハーサルで恥をかかなければ、本番での成功はやってこない。評論する側に回るのか、批評される側のどちらにいくのか。選択は自由ですよね。本を出版することや講演をすることも同じで、世に問うからこそ、反響があるし、認識が深まっていく。

僕はフランスに留学していたときに、「人生は、ギブアンドテイクじゃない。ギブアンドギブである」と、教わりました。結局、ギブしようと思ったら、自分が強くならないといけないわけですよね。非常にきつい作業ではあるのですが、続けていくことが大事なのかなと思っています。

脇田

「ギブアンドギブ」は素敵な言葉ですね。私もベーシックな感情は大切にすべきだと思います。誰もが良いと認める価値だけでなく、自分が大切にしている特異性や洞察力を大切にしたいですね。

プロフィール

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邉見 伸弘(へんみ のぶひろ)

デロイト トーマツ コンサルティング及びモニターデロイト執行役員・パートナー、チーフストラテジスト。世界経済フォーラムフェローやハーバード大学国際問題研究所研究員等を歴任。Deloitte Global Economist Councilメンバー。国際協力銀行(JBIC)にてプロジェクトファイナンス、経営企画部門で国際投融資(アジア地域及びプロジェクトファイナンス)、カントリーリスク分析、アジア債券市場育成構想等に従事。その後、A.T Kearneyを経てデロイト トーマツ コンサルティングに参画。国際マクロ経済・金融知見を軸に、国際情勢分析を専門とする。メガトレンド分析、シナリオ及びビジョン策定、中期経営計画策定支援を中心に業界横断型、クロスボーダー案件を中心に活動。最新著書に『チャイナ・アセアンの衝撃 日本人だけが知らない巨大経済圏の真実』(日経BP)。「地政学とビジネス:ASEAN Foresight2025」Diamond Harvard Business Review on line、「不確実性を生き抜く上でのビジネスインテリジェンス」(東洋経済新報社)等の寄稿・講演多数。
ハーバードビジネススクール(AMP)、仏ESCP-Europe(MBA)、慶應義塾大学環境情報学部卒

脇田 玲(わきた あきら)

アーティスト。慶應義塾大学 環境情報学部長。2014年より慶應義塾大学環境情報学部教授。科学と美術を横断するアーティストとして、数値計算に基づくシミュレーションを駆使し、映像、インスタレーション、ライブ活動を展開している。Ars Electronica Center、Mutek、Redbull Music Festival、WRO Art Center、清春芸術村、日本科学未来館、Media Ambition Tokyo、21_21 DESIGN SIGHTなどで作品を展示。http://akirawakita.com

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